|
『妖姫星』 夜明けの空に一際輝くひとつの星。古来、人々はその神秘的な美しさを称え、様々な神 話を生み出した。ある地方では美と創造の女神の悲しい話であり、またある地方では死後 の世界で人を裁くという片目の男神の話であった。 冬の暖炉を囲んで、吟遊詩人の繊細な指がリュートの弦を掻き鳴らす。自らの汚れに気 付いてしまった大人達は、遠く輝いていた日々を思い出す。この日ばかりは多少の夜更か しを許された子供達は、ごちそうを詰め込む手も動かせずに熟練した歌声に聞き入る。 人々に教訓と夢を与える物語。 だが詩人や学者や聖職者達の意図とは裏腹に、各地で依然として根強く語り継がれる一 つの神話があった。全てを飲み尽くさんとして天宮を追われた『欲望の女王』の話である。 いつの日か彼女は天宮へ返り、その魅力と策謀を武器に再び天界に君臨するという…。 闇に飲み込まれた街は、昼間とは違った活気に溢れていた。国境ではモーガンの街との 小競り合いが繰り返されてはいたものの、ここラスタガの街は至って平和に見えた。 オリストは向かいから千鳥足で歩いてくる傭兵らしい男達を注意深く避けた。男達は酔 っ払い、大声で自らの自慢話をしていた。こういった連中がちらほらと姿を見せるという 程度の緊張感しか、まだこの街にはなかった。しかし戦火が拡大すれば、いずれは正規軍 の動員が始まるだろう。そうなれば昨日までパンを練っていた若者や、小麦の出来具合を 心配していた若者達が剣を取ることになる。彼は若い頃に一度だけ戦場に立ったことがあ った。その時の記憶が蘇り、彼は顔を顰めたが今は別の問題があった。 細く、薄暗く、それでいて妙に活気のある裏通りをオリストは足早に通り抜けた。少し 先を歩く男の後ろ姿を確認しながら、彼はミンスターの街で待っている主人のことを思い 出していた。この街にやって来てからもう一週間になる。レパード様は首を長くして帰り を待ってらっしゃるだろう。ここ数日、彼の焦燥は募るばかりだった。だが、自分の目に 狂いが無ければ…。男が薄汚れた酒場に入るのを確認し、オリストは足を止めた。 「俺に何の用だ?」 テーブルに腰を下ろした途端、後ろから低い声を掛けられオリストは慌てた。危うくゴ ブレットを倒しそうになる。 「い、何時の間に」 彼は懸命に心を落ち着かせると、男に目をやった。背の高い、痩せた若い男だった。店 内だというのに、灰色のローブのフードは深く下ろされたままだった。浅黒い肌と薄い唇、 それに長く伸ばしているらしい黒い髪の毛が少し見えるだけだった。長いローブの裾から は、長剣の鞘が覗いていた。胸の辺りのローブが少し持ち上がっている。おそらくその下 では短剣が握られているのだろう。無闇に武器を振り回すタイプには見えないが、返答次 第では…。オリストは穏やかに言った。 「この店に入ったのは見間違だったのかと思い始めていたところでしたよ。どこに隠れて らしたんです?」 「何故俺をつけた?」 「おかけになってください。お話ししましょう」 男はテーブルを回り込むと、向いの椅子についた。オリストはその歩き方を注意深く観 察した。男が席に付くと給仕をする娘に声を掛ける。 「ゴブレットを」 娘が去るまで待って、オリストはゴブレットにワインを注いだ。 「私はオリストと申します。ミンスターの街から来ました」 男はテーブルに置かれたゴブレットに右手をかけたまま、飲もうともせず、口を開きも しなかった。 「私はある人の使いで、人を探していました。忍びの者をね。見つけられたと思います が?」 男は言った。 「それで?」 オリストは男の、長い旅で擦り切れ、薄汚れた装束を見ながら言った。 「あなたに仕事を差し上げることが出来ます。主人は、ミンスターの街では知られた存在 です」 男は立ち上がった。 「興味無いな。お互いに時間の無駄だったらしい」 オリストは慌てた。 「待ってください!報酬は十分に用意出来ます。早いところ見つけ出してお連れしないと 私は…」 男の返答は素っ気無かった。 「それは、あんたの都合だ」 オリストは必死に考えた。いきなり切り札を使う羽目になるとは。彼は素早く辺りを見 回すと、小声で言った。 「その仕事というのは『暁の星』に関することなんです」 その言葉が男に与えた影響は絶大だった。立ち去りかけた男が振り向いた。フードで影 になっていたが、男の目がギラリと物騒な光を放ったのが感じられた。 「言え。教団の何を知っている」 オリストは今や自らの優位を確信し、落ち着き払って言った。 「それはレパード様がお話しくださるでしょう」 部屋は思っていたよりも広くなかった。これだけ大きな屋敷の主人の部屋としては、む しろ小さいといっても良いだろう。だが、敷き詰められた柔らかい絨毯や、一目で高級品 と分かる書棚やクローゼット、棚に置かれた精緻な彫刻を施した置物や壁に掛けられた絵 画などは、いずれもこの屋敷の主人の持つ趣味の良さと富とを物語っていた。窓を背にし て黒檀を彫り込んだ大きな机があり、そこには一人の初老の男が座っていた。 「君がオリストが探し出してきた忍びの者という訳だな」 立ち上がったレパードは歩み寄り、右手を差し出した。がっしりと握ったその手を見て 言った。 「なる程、繊細な手だ。知らなければ芸術家か医者だと思うだろうな、クフィル君」 クフィルはレパードを観察した。それ程背は高くはないものの、がっしりとした体格の 男で、日に焼けた顔には年齢相応の皺が刻み込まれている。若い頃はさぞ有名な使い手だ ったのだろうし、その腕はおそらく今でも健在なのだろう。 「さあ、かけたまえ」 部屋の隅の椅子に腰を落ち着けると、レパードは自ら、低いテーブルの上に東方からの 輸入品である乾燥果実や、高価なレクの乾し肉などのちょっとした品物を並べた。ゴブレ ットを手渡して言う。 「このワインは家で仕込んだ物なんだ。お気に召すと思うよ」 クフィルは早く用件を切り出したかったが、ぐっと堪えた。ここは相手のペースで話を 運ぶ方が賢明だろう。レパードが飲むのを確認しつつ、慎重に口を付ける。ワインは、ち ょっと酸味が強かったが豊潤な香りとこくがあり、レパードが自信を持って勧めるのも当 然だった。レパードは期待に満ちた目でクフィルを眺めていた。 「どうだね?」 「素晴らしいワインです。レパード様」 レパードは手を振った。 「そんなに堅苦しくすることはない。わしも昔は一介の戦士にすぎなかったんだ。運良く 功成って、今はこんな暮らしをさせてもらっているがね。祭り上げられるというのも、こ の歳になると悪くはないものだな」 レパードは目の前の若者を眺めた。柔らかい上着とぴったりとしたズボン。左肩から幅 の広い革のベルトが巻かれている。等間隔に入れられた切れ込みには細い薄刃の投げナイ フが差されており、それは心臓とみぞおちを保護するのにも役立っていた。ベルトは右の 腰で剣帯に留められている。オリストから聞いていた細身の直刀と、革の鎧は身に付けて いなかった。おそらく屋敷の主人に対する最低限の礼儀として、彼に割り当てられた部屋 に置いてきたのだろう。 引き締まった体。浅黒い肌。長く伸ばした黒い髪は首の後ろで束ねられている。長い経 験から、レパードは外見に惑わされずにこの若者の力量を推し量ることが出来た。ほっそ りとした外見にとらわれてこの若者を怒らせてしまう者は、後悔することになるだろう。 「君は、砂漠地帯から来たのかね?」 「そうです」 「だが、君の西方語はほぼ完璧だ。こちらでの暮らしは長いのかな?」 「はい」 長かった。そしてそれは決して楽しい生活では無かった。故郷を飛び出し、捕えられ『 首輪』を付けられた忌まわしい過去。どうにか自由を得てからも、彼を待ち受けていたの は冷酷な世界だった。都会という環境は、ある意味砂漠よりも遥かに厳しいところだった。 彼を利用しようとする男達。騙そうとする女達。辺境の民、蛮族と蔑まれる異境の地で、 身寄りも無い若造が生きてゆくには、道徳や正義などという曖昧なものは何の役にも立た なかった。 盗み、奪い、騙した。どうしようも無い時にはリングに立ちさえした。彼の、対戦相手 の流す血と苦痛、そして死を見たがる観客。ぎらぎらした瞳で喚き声を上げる、普段は上 品で、おそらくは暴力とは無縁の人々。闘技場に溢れているのは人の形をした感情の吸血 鬼どもだった。 やがて一人の女性と出会い、故郷を飛び出して以来始めて安息の地を得た。その後各地 を転々とし、傭兵となり、思いがけないことから街道を荒らす盗賊団を率いることになっ た。ある日故郷から一人の男が訪れ、砂漠に帰った彼を待っていたのは…。愛する者を、 かけがえの無い友を失った。たった一人の弟とは、もはや顔を合わすこともないだろう。 代わりに得たものは悲しみ、後悔の念、そして憎悪。その時から、教団の司教を見つけ出 し、復讐を遂げるというただ一つの思いだけが彼の人生を支配した。 「そろそろ聞かせて頂けますか?俺に何をしろと?」 レパードは椅子に深く腰掛け直すと、腕組みをした。 「君は『暁の星』と呼ばれる教団を探っていたということだが…」 この男は戦士としてだけでなく、商人としても大成しただろう。クフィルは頷いた。 「教団に関してどの程度まで知っているのかね?」 これ以上レパードのペースに付き合うつもりは無かった。単刀直入に彼は言った。 「教団は、一般に知られているような教義を広める組織ではありません。その究極の目的 はただ一つ。彼らが『欲望の女王』と呼ぶ魔神をこの世に降臨させるということです」 レパードは満足気に頷いた。 「そして、その為には多くの生け贄が必要となる。彼らが行っている儀式に関しては、知 っているようだな」 「ええ…知っています」 レパードは身を乗り出した。 「この街でも最近、教団の活動が活発になってきた。以前は街中でひっそりと集会を行っ ている程度だったが、最近は教団の紋章を付けたものをやたらと見かけるし…」レパード は言葉を切るとクフィルの表情を窺った。「何より行方知れずとなる者が急増した。それ も若い女や子供ばかりだ」 「この街には以前から教団の支部があったのですか?」 「君の言いたいことは分かる。何故放置しておいたのかと言うのだろう?わしが教団の実 態を知ったのはつい最近のことなんだよ。それを調べるのに一年の歳月と七人の人間を使 ったよ。うち六人は帰って来なかった」 「帰ってきた者は?」 レパードは溜め息をついた。 「死んだよ。その男がここに辿り着いた時には、既に手がつけられない程毒が回っていた。 が、意識ははっきりとしていた。男は教団の実態と暗殺者に襲われた経緯を話し、意識を 失った。数時間ともたなかったよ」 教団の暗殺者達は命知らずの上、致命的な毒を使った。レパードは陰うつな表情で続け た。 「都へは使いの者を送った。だが、取り上げて貰えるかどうか…。奴等は意外なところに 根を張っているからな」 「この街の施政官へは?」 「この街には施政官はいないのだよ。名目上の町長はわしだが、実際の市政の運営はこの 地方の庁舎から派遣されてきた役人達が行っているのだ。この程度の田舎町なら、それで 十分といったところなのだろうな」 「なるほど」 「そこで、わしは考えた。自警団は全く役に立たん。ならば、わし自らの力でなんとかし ようとな。わしはもう歳だし、ここを離れる訳にはいかん。だから腕の立つ流れ者を探し た。オリストの話では、君は酒場や斡旋所で教団の話を聞いて回っていたそうだな」 旅芸人が立ち寄る場末の酒場や、冒険者達が集まる斡旋所。そこには様々な情報が飛び 交う。勿論、中には全くのでたらめや、元の話から遥かにかけ離れてしまったものも含ま れている。だが、ギルドや大きな暗黒街の無い田舎街で情報を集めるには、そういった場 所をまめに歩き回るしかなかった。 オリストと名乗ったこの屋敷の執事の姿が目に浮かんだ。一見人の良い親父といった風 情だが、なかなか侮れない男だ。今では教団側でも彼の存在に気付き、警戒し始めている。 情報の収集には気を遣っていたつもりだったのだが。 「教団に何か含むところでもあるのかな?」 レパードの口調に変化はなかった。クフィルはゴブレットを掴む手から力を抜いた。 「ええ。奴等には返さねばならない借りがあります」 レパードは若者の黒い瞳に踊る暗い炎を認めた。 「詳しくは聞かんよ。だが、わしが君と出会えたのは運が良かった。また、おそらく君が わしに出会えたこともな」 いよいよ本題だ。クフィルはレパードが先を続けるのをじっと待った。 「わしの依頼とは、この街の教団に潜入して貰いたいということだ。教団の秘められた部 分の証拠を押さえ、可能なら司祭を捕えてここに連れてきて欲しい。証人になってもらう 為にな」 クフィルは以前捕えたある司祭を思い出していた。その司祭はどうしても司教の居場所 を吐かず、最後には自殺してしまった。 「それが不可能なら?」 一瞬、レパードの温和な瞳に、かつてはそうであったであろう鋭い光が灯った。 「殺すんだ」 クフィルは背もたれに体をもたれかけ、レパードを眺めた。殺せ、か。彼にとっては、 それは的を得た、全く奴等にはふさわしい指示だったが、この男は教団の実態を一人の人 間から聞いただけなのだ。これ程経験を積んだ人物がその程度の理由で人の生死を判断す るとは、いささか信じがたかった。 「驚いたかね?」 「ええ、少し」 「『暁の星』といえば、数こそ少ないものの西方に広く布教活動をする教団だ。その司祭 の抹殺を指示するには、証拠が足りないと思っているのだろうな」 「その通りです」 「わしが送り出した密偵の話をしたな。帰ってきたただ一人の男の話を。あれはな、わし の息子だ」 レパードの瞳は、今やぎらぎらと輝いていた。 「これで分かっただろう。わしはこの街を預かる者として、そしてただ一人の息子を失っ た父親として、何としてもあの教団の実態を白日の下にさらさねばならんのだよ」 クフィルはしばらくの間黙っていたが、やがて一言だけ言った。 「お引き受けしましょう」
|
||||||||||||
|
このページの先頭 |
||||||||||||